ポスター掲示的な年賀状

新年。辰年

今年は本当に久しぶりに紙の年賀状を書いた。お世話になった人たちに。
出来和えのものですましてしまったけれど、来年からは手作りデザインのものにしてみるのも悪くないかもしれない。知性とセンスが問われる。例えば辰年だったらどんなものにしていたのだろう。龍とか辰とかドラゴンとかそのへんから連想されるものからどんどん考えていかないといけないのね。たいしたものが思いつかない。今パっと思いついたのは日本むかしばなし風の龍の背中に桜の木が生えてるくらいのもの。まあ次のお正月には何か思いつけるように頑張ってみよう。修論でそれどころじゃないかもしれないけど。

ところで年賀状のスタイルもだんだん変わってきた。しばらく前はまあ紙の年賀状が一般的だった。今でも一番多いのは紙かもしれないけど。ただ僕が中学か高校くらいになるとどんどん紙の年賀状を出すのも減っていって(出すのは誰かがくれたやつに返事するときだけ)、もう携帯のメールで年賀状を出すのが普通みたいな感じになった(僕はそのときも基本的に返事しか返さなかったけど)。そのスタイルがしばらく続くのかなと思ったけど、案外続かなかったみたい。今年もらったメールの年賀状は1通。単純に僕の友達が少ないだけなのかもしれないけど、みんなtwitterfacebookであけましておめでとう書き込みをするというスタイルだった。こうすればわざわざ一斉送信にみんなのアドレス入れたりする必要がない。

これはわりかし大きな変化な気がする。それまではあくまで「誰かに対して手紙を送る」というスタイルだったのに対して、「不特定多数が人たち閲覧できるスペースに書き込む」というスタイルである。つまり誰かに「届ける」という意識ではなく、「ここに書いておけば誰か読むだろう」という意識。年賀状が「手紙」から「ポスター」に変わったのだと思う。不特定多数の人々が見れる掲示板に年賀ポスターを掲示する感じ。まあ年賀状に限ったことではないし、みんな親密度にあわせて紙の年賀状なりメールの年賀状なり年賀ポスターなりを使い分けてるのだろうけど。つまり別にあけましておめでとうと言いたいわけでもない相手にもそのメッセージが読まれることを許容する。これはtwitterで顕著。

そのあたりの対人関係の捉え方というのはなんかちょっと意識していかなければならないなと思う。まあそういう意識のずれが最近twitterでいらんことを告白する人が多いことに関係するのだろうけど、まあどうでもいい話で、たぶん問題は「届ける」という意識が消えていっていること。そういう風にインターネット上でのコミュニケーションの仕方が変化しているにも関わらずそれを現実世界(?)で意識できていないこと。メール年賀状からtwitterfacebook年賀状への移行はすごくスムーズに行われたが、その大きな差がたぶんあまり意識されていないことなんだと思う。あまりに受け手のことを意識しないコミュニケーション。テレビとかでは双方向メディアとかそんな話にもなってるけど、twitterとか見てて感じるのは、最近のそういうネット社会が基本的に一方通行のコミュニケーションになっていること。お話してるように見えてもどちらもお互いの話を聞いておらず、一方通行がすれ違っているだけ。メールとかの返信をしない・忘れることが増えているのがその反映だと思う。それがface to faceの場で起こらないように気をつけなければならないと思うのでした。