メタなことを言いだす人は疲れてるんじゃないか説

しばらく前に岡崎体育の『MUSIC VIDEO』という曲が流行った。「曲」というよりもPVがある前提の曲なので、どちらかと言うと「映像作品」になるんだろうと思う。


岡崎体育 『MUSIC VIDEO』Music Video

これに関して友達と話すことがあって、何かというとその友達が「なんでこれが流行ったのか全く理解できない」と突然言い出したからだった。要点としては「メタなのはいいけどそもそも音楽としていいのか?」的な言い分だった。音楽としていいかどうかは個人の好みなのかもしれない(ちなみに自分としてはキャッチーで嫌いじゃないけど別にヘビーローテにはならんなあという感じ)けど、あーだこーだ話した結果、「みんな疲れてるんじゃないか」という結論になった。

 

僕が大学で建築設計を勉強していた2010年頃、「設計の設計」ということを言い出す人たちがいた。

設計の設計

設計の設計

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 いま、設計のための新たなプラットフォームづくりが急がれている。コンピュータなど、いまや実現可能になりつつあるさまざまな技術を用い、人間の行動やプロセスのなかで、建築、空間、情報環境を設計し、人と社会の関係を設計しなおす試みが建築や情報工学の分野で生まれている。

「人間の行動やプロセスのなかで人と社会の関係を設計しなおす」と書かれているように、「設計する」というプロセス自体を見直そうという動きだったと理解している。いまこういう動きがどうなっているのかはよく知らないが、こういうことが言われていた当時に激しい違和感を持った覚えがある。

「設計の設計」、つまり「設計するプロセス自体を設計する」というメタ的な視点が生まれるのはおおよそ「いままでのやり方では社会に適合するものが生み出しづらくなった」から、という側面が大きい。人々の考え方や好みが多様化したため、ある一つの価値観で建築を生み出すのではなく、違ったプロセスで生み出していこうという考え方なのかと思う(そういうときによく言われるのが「共創」とかいう概念だけどまあそれはいい)。

けどそれはただ疲れてるだけなんじゃないかなーと思う。単にいままでのやり方で「良いもの」を生み出すのが難しくなって、それを考え続けるのに疲れてしまっただけなのでは、わりとそういうことを考えたくなるのって一時的なものなのでは、という気がしている。その事自体は仕方ない部分もあるけど、自分にとって問題だなあと思うのは、「設計の設計」みたいなプロセス重視の考え方って、往々にして意思決定のスムーズさを優先して、最終的な成果物が本当によいかどうか、という部分から目を背けてるように見えることがあること。「こういうプロセスで決めたから、これはいいものなのだ」的な。昨今の人間中心設計とかもその印象がある。

 

冒頭の岡崎体育の例も、単にみんな音楽の良し悪しを判断するのに疲れてしまって、こういうメタ的な音楽に対して「あるあるw」と笑うことの怠惰な心地よさに飲み込まれてるだけなのでは、という気もしなくない(これは別にその音楽が良い悪いを決める話ではない)。

そのこと自体が別に良い悪いではないのだけど、わりとそういう流れって一時的なもので、そのうち誰かが「次世代の良いもの」を作って世の中を少し変えてくれる、みたいな気がする。というのと自分はどちらかというとアウトプット重視で生きていきたいという気持ちは持っている。

 

まあ別に結論もないけど、みんな疲れてるなー。