羽海野チカ漫画のとある美乳のコマ内の表現について考える

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羽海野チカ『ハチミツとクローバー』より

 

このコマ、さらっと描かれてるけどすごいと思うんですよ。内容的には「風呂場で山田さんが美乳であることにショックを受けたはぐちゃんを、真山がなぐさめる、森田先輩がもらい泣きする、修ちゃん先生と竹本くんがほほぉ…って感じになってる、後ろで山田さんが酔っ払ってる」というだけのシーンなんだけど(一コマでこれだけ大人数がみんなそれぞれ違うことしてて、これだけ生き生きと描かれてることがそもそもすごい)。

 

個別に見てみる

まず真山のセリフ。3連フキダシが横に連なっているけど、左に行くにつれて文字が小さくなっていくことで、最初驚いて大きく上げた声がどんどん小さくなっていくことが分かるし、一番左のフキダシはすごいグニャグニャしてて、声がちいさくなるだけじゃなくてしどろもどろになってる様子すら伺える。そのセリフを喋ってる真山の表情は、当然静止画であるものの、なぜか驚きからしどろもどろまですべてを表現しているような微妙なものになっている(この意味で、漫画のコマというのはある一瞬を切り取ったものではなく、「幅を持った」時間が詰め込まれているものと捉えられる)。

 

手前の修ちゃん先生と竹本くん。二人から出た「考える」系フキダシは「そっか…美乳なんだ…」のセリフに収束して、「二人が同時に同じことを考えている」ことを示している。ふたりとも顔を赤らめているが、修ちゃん先生は「ビール」と書かれた缶らしきものを口につけており、頬の赤みがエロいこと考えてるからなのか酔っ払ってるからなのか両方なのかよくわからなくなっている。しかし、この二人の顔が赤いことが「今この場がとても盛り上がっている」ことを強く暗示しているように思われる。そして、「そっか…美乳なんだ…」のフキダシはがコマの枠から微妙にはみ出すことで、「ふたりが端っこでこそこそエロいことを考えている」ことが感じ取れる。

 

また、このコマは非常にメタ的な視点も入り込んでいる。ひとつは「※はぐは18なのでもうこれ以上大きくなりません」という注意書き(言うまでもないが、これ以上大きくならないのは「乳」である)。これは別にはぐちゃんが白状しているわけでも、真山が事実を突きつけているわけでもなく、作者による「その場へのツッコミ」である。もう一つが真山の背中に貼り付けられた「偽善者」の貼り紙。これは実際にそういう紙が真山の背中に貼り付けられているわけではなく(漫画の中の話なのに「実際に」というのも変な話だけど)。この漫画のシーンの一部である「真山」という作品について、作者である羽海野チカが読者に伝えている補足なのである。性質としてはキャプションに近い。別に真山の横に「←偽善者」と文字を書くだけでも伝わる情報としては同じなのだけど、これが漫画の中で「紙」という物質性を伴ったかのような描かれ方をすることで、読者である私たちは「漫画を読む」「ある大学生たち(と先生)の楽しげな様子を眺める」というふたつの位相の境界線を揺らぐことになるのだ。

 

 そして後ろで酔っ払ってる山田さん。瓶ビールを注ぎながら「先生ーー もービールないですよ」とほざいているが、その文字が斜めになることで、彼女がほろ酔い気分であるように感じ取ることができる。ここで気になるのが、彼女が右手に持っているのがビール瓶であることは、左手に持っているジョッキに「ビール」と書かれなければわからないだろうか?頬を赤らめた女性が瓶とジョッキを片手ずつ持つなんて、ビールじゃないわけが無い。けれどもわざわざジョッキに「ビール」と書かれることで、なぜかその場の「へべれけ感」がアップするのだ。余計に山田さんが愛おしく感じられるのだ。もしジョッキに何も書かれていなければ、彼女はただの飲んだくれになってしまうのだ、なぜか。

 

ところで、山田さんは瓶ビール、修ちゃん先生は缶ビール(たぶん)を飲んでいるわけなのだけど、よく考えると、同じ宴会の場に瓶ビールと缶ビールが両方出ていることってあるっけ?普通はあんまりないような気がするけど、だとしたら「山田さんが缶ビールをもっている」か「修ちゃんが瓶またはジョッキをもっているか」どちらがしっくりくるだろう。考えてみても「どちらもしっくりこない」のだ。山田さんはジョッキを持っててほしいし、修ちゃんは缶ビールを飲んでてほしい。それぞれで最適な描写が個別でなされているにもかかわらず、全体として不思議な描写になっていることに気づかない。

 

最後に少しだけ森田先輩に触れると、森田先輩ははぐの横でうつ伏せてもらい泣きをしている。のだが、そもそも僕たちはなんでこれが森田先輩であることがわかるのだろうか?顔は映っていない。はぐのように注意書きがされているわけでもない。けどなぜか僕たちはこれが森田先輩であることがわかってしまう。「前後の流れでわかるでしょ」と言われるかもしれないけど、このコマだけ見てもこれが森田先輩であることが分かるだろう。「髪型だろ」という意見ももっともだけど、僕はきっとこの人が頭に何かかぶっていて髪型どころか頭が全く見えなかったとしても、これを森田先輩であると感じると思う。きっとこの場で「わあああん」と「もらい泣き」をしているこの人こそが森田先輩であると、いつのまにか思ってしまうのだ。『マンガを「見る」という体験―フレーム、キャラクター、モダン・アート』の中で「キャラ図像」と「キャラ人格」の2つが説明されている*1が、この森田先輩は「キャラ図像」ではなく「キャラ人格」によって規定されていると考えられる。「この5人と一緒にいるんだからそりゃ森田先輩だろう」と考えることもできるが、これもある意味「キャラ人格」と言えるのだろうか?

 

全体として

個別に見てもすごいコマだけど、何よりすごいのは、上でダラダラと並べたようなことが、このコマを一瞬見ただけですべて把握できるということだ。漫画を読み進む右から左の流れでストーリーは進む。つまり真山の「美乳!?」という驚きからこのコマは始まり、泣き崩れるはぐ、もらい泣きする森田さん、照れる竹本くんと修ちゃん、酔っ払う山田さん、と、あまりに多くの情報量が詰め込まれていながら、スムーズにそれを読み込むことができる。

あまりこういうところが言及されることは少ないけれど、羽海野チカの漫画の凄さはこういうところにあると、僕は思う。

 

参考

『ハチミツとクローバー』を今更読んだ

ハチミツとクローバー 1

ハチミツとクローバー 1

 

 

マンガを「見る」という体験―フレーム、キャラクター、モダン・アート

マンガを「見る」という体験―フレーム、キャラクター、モダン・アート

 

 

*1:伊藤剛は同書の中で、コマをまたぐ際の図像類似性によるキャラの同定を「キャラ図像」と呼び、図像の類似性ではなく、指示、意味する個別的な対象であることによって同定されるキャラを「キャラ人格」と呼ぶ岩下朋世の定義を紹介している