落合陽一『魔法の世紀』を読んだ感想、建築とテクノロジーの関わりなど

 

魔法の世紀

魔法の世紀

 

 2016年始めの読書として、落合陽一さんの『魔法の世紀』という本を読みました。「超音波でモノを浮かせた人」とか「魔法使い」とか、メディアアーティストとしての落合さんは名前をよく聞いていたのですが、本も執筆していたというのは知らなかったので、とりあえず電子書籍で読んでみました。

感想とか考えたこととか

「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」というアーサー・C・クラークの言葉をなぞって、テクノロジーによる「魔法」を世に出そうとしている、というところから話が始まりますが、具体的には「実世界指向インターフェース」という分野の研究をしているそうです。ざっくり言うと、ハードウェアデバイスの操作ではなく、空間そのものの操作・体験をテクノロジーで実現する、といった感じでしょうか。

現実における情報環境の構築

「Pixie Dust」

超音波でものを浮かす「Pixie Dust」という作品で、「情報ハードウェアとしての「ディスプレイ」をその都度、動的に形成しうる環境の研究」を行ったとのことですが、これを理解するのが結構難しい。単なる3次元メディアではなく、「環境」の構築であるということ。要はこの『Pixie Dust』の中に人間が入り込んだ状況をイメージすればいいのかな、と理解しています。空間そのものから情報を得る。そういった界隈でいま盛り上がっているのがVRやARだと思いますが、これらは物体そのもの、つまり現実世界に直接干渉はしません。そこに「物質性」は無いに等しいのですが、「環境」の構築に際しては「物質性」への考慮が不可欠になってきます。素材は何であるか、そこの「場所性」はどのようなものか、そういったものを考慮して初めて五感に訴えかける情報環境が構築できるはずです。例えば下北沢で構築する情報環境とバンコクで作る情報環境は、きっと異なるものになるでしょう。「文化」や「場所」を視野に入れたテクノロジーの発達はこれから大いに期待したいところです。

建築学専攻出身の人間としては、こういったテクノロジーと建築物との関係が非常に気になります。正直なところ、現在、建築側(いわゆる意匠設計)がテクノロジーとの共存をかなり拒んでいる節があります。(おそらく建築事務所の意匠設計担当者は、建築物のどこにモニターを置くか、といったことすらあまり考えていないのでは)
例えば攻殻機動隊なんかのSFに見られるような未来の(都市)空間を実現していくうえで、建築とテクノロジーの融合は不可欠です。エントランスではどのような情報がどのような技術でもたらされる?階段では?駅からエントランスの間では?建築は箱だけ作って「あとはお好きなように」というのは時代遅れなんじゃないかなあ、と思うわけです。

メディアとインターフェース

例えばセンセーショナルなニュースがあったとき、以前の我々の会話の切り出しは「昨日テレビ見た?」とか、「今朝の朝刊見た?」などの前振りで始まっていましたが、今は直接的にニュースのコンテンツそのものを見たかと聞き合うようになっています。例えば「新しいiPhone見た?」とか「テスラの発表見た?」とかいったふうに、その情報がどういった経路を伝ってきたのかに対し無自覚になりつつあります。

落合陽一『魔法の世紀』 第1章「魔法をひもとくコンピュータヒストリー」

ニュースコンテンツ、すなわちモノの媒介としてのメディアはかなり透明になってきたと言えます。

象徴的に言えば、人々はシネコンに『ゼロ・グラビティ』や『マッドマックス』を観に行くのではなく、シネコンとして切り出された娯楽を体験しに行っているのです。

上掲書 第3章「イシュードリブンの時代」

メディアが人の動きを規定することはマクルーハンの言った通りですが、そのメディア自体もかなり透明、というか人の目に見えないように巧妙に隠されるようになってきました。「空間」「体験」そのものがメディアに規定されるようになってきたからです。
かつては「映画館」と言うと、シューボックス型の観客席とスクリーンの関係性を指していましたが、いまはその周りのホワイエ(?)や売店、さらには売店で売られているものやプロモーションのあり方など、さまざまな要素が「映画館」というメディアに乗って展開されています。
モノだけではなく、そのモノを取り巻く要素としての空間をメディアとして扱う、その視点をテクノロジーで加速させてやることができるのでは、という論旨なのかな、と。(ここで「エーテル」「エーテル速度」といった言葉を持ち出してますが、これによってかえって内容がわかりにくくなってる気が。。)

そうした世界における「インターフェース」とはどういったものになっているのか。当たり前ですが、いまのスマートフォンのような「画面をタッチ」とか「キーボードを連打」みたいなものではない。ここではインターフェースは大きく二極化していくものと考えられます。「透明になるか」「そのインターフェース自体が利用の目的になるほど魅力的なものになるか」です。
透明になる、とは人々に存在を認知されないようなものになること。空間体験そのものをテクノロジーでエンパワーできるのであれば、まずインターフェースはただの画面ではなく「操作」という体験を含めた概念になるはずです。そして、「体験と体験を接続するもの」としての「操作」は知覚不要になります。前に別の本で読みましたが、体験の中で自然と操作が完了している、という透明なインターフェースが望まれるものと思います。そうでなければ、もはや「操作したい、操作している実感を得たい」というレベルで魅力的な操作体験を提供するインターフェースが求められるでしょう。それを「インターフェース」と呼ぶか「コンテンツ」と呼ぶかは謎ですが。(この「透明になるか」「魅力的なものになるか」は、今現在「広告」という存在が二極化を迫られていると感じています。普通にしてたら「ウザい」広告がどのように存在意義を獲得していくのか、という問題が「インターフェース」にも当てはまるようです)

まとめ的な

この本が面白かったのは、単にテクノロジー礼賛ではなく、人間の感情というか、どうしようもない感覚みたいなものを重視しているところです。

人間が直接触れるインターフェースに当たる部分では、人間を用いたほうが効率がよい場面は数多くあり、これは今後も不変かもしれません。変な話、皆さんが使ってるスマートフォンと同じことをしてくれるかわいい彼女がいれば、みんなそっちを選ぶのではないでしょうか。(中略)
そんなふうに考えると、人間は人間のインターフェースとしていつまでも残っていくのではないかと思います。

上掲書 第6章「デジタルネイチャー」

どれだけ世の中が便利になっても、どうしてもアナログな部分が人間にはあり、そのバランスを保つのが非常に重要で、難しいと感じています。その微妙な部分をすり抜けつつ、魔法の世紀が来るのはいつになるか、できることなら自分もその一端を担いたい、と思うのでした。