自分が使っている手帳に、いくらの値段をつけるか

ふだんモレスキンの手帳を使っている。

その手帳の表紙をめくった最初のページには、失くして誰かがそれを拾ってくれた時に、「ここに届けて下さい」という住所とともに、「届けてくれた人に対する謝礼の金額($)」を書く欄がある。その次のページには個人情報の記入欄があるが、そこには名前や住所、電話番号だけでなく、血液型やアレルギー、ワクチン接種とその接種日、車のナンバーや免許証番号とその有効期限など、様々な項目の記入欄がある。

日本だと落ちてる手帳見つけたらスルーするか、すぐに近くの交番か係員さんに届けそうなもんだけど、イタリアでは謝礼も無しに手帳を届けるなんてことはしないのだろうか。さらに記入してある謝礼に満足がいかないのならば、その次のページに記入されている個人情報をもとにその人となりを推測し、いくらふっかけるか考えるのだろうか。

ところで、自分が自分の手帳に値段をつけるとしたら、いくらにするだろう。そして何を基準にするだろう。

お金を払ってでも帰ってきて欲しいということは、その手帳が無いと困ったことになる、ということだ。ひとつには、その手帳が無いと自分の予定が分からなくなってしまう場合。もしくは、ネタ帳など、後々利用しようと考えていた情報を無くしたくない場合。さらに、その手帳に挟んでいる何かがとても大切な場合。

最後の場合はともかく、前2つの場合というのは、いわば自分で生み出した情報を、自分がお金を払って買い取るということになる。ちょっといびつ。けどここで、「またその手帳を見ないと思い出せないなんて、どうせ大した用事や情報じゃないんだから、別にお金払ってまでその手帳にこだわる必要はないんじゃないの」というのは無粋。

逆に言うと、「その人が生み出した情報をお金を払ってでも手に入れたい」という意味で、過去の自分と現在の自分が別物として取り扱われている。ある情報が書き込まれた時と、別の情報が書き込まれた時の、その時間の差が手帳には明白に現れ、それを書き込んだ時々の自分は全て違う自分なのだ。

例えば小説を読む時の自分の中での面白さの基準は、その中の登場人物がどれほど違った考えを持っているか(そしてそれがどれほど真剣にぶつかり合っているか)で、面白い小説にはそれなりのお金を出したい(読むまで面白さはわからないのだけど)。手帳にも同じことが言えると思う。その書き込まれている情報の中に、どれほど多くの自分が違った振る舞いをしているか。それが手帳の値段を決めるひとつの指標かもしれない。

ただのメモでも構わない。ただ予定を書き込んでいるだけでも構わない。何をメモしているか、予定をどのような文体で書いているか。それを書き込んでしばらく時間が経って、書き込んだ自分を客観視できるようになってからもう一度読み返すことで、その内容から、また新しい情報を得ることができる。そしてそれは小説などの面白さと同じで、読んでみるまでどれほどのものかわからない。

だから、あらかじめ「この手帳を届けてくれた人には報酬としていくら支払いたい」というのは、その手帳をもう一度見返してみるまでは言えない。けど、見返すことができるということはその手帳を失くしていないということ。

なので僕はこの欄を埋めることが出来ない。