『弱いつながり』を読んで思った、「ネットを散歩すること」について

東浩紀氏の『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を読みました。
去年の夏、発売されてすぐの頃に一度読んでいたのだけど、いまを生きる上でまじないのように心に引っかかってくる内容なので、久しぶりに再読しました。

この本では、「検索」という行為を軸に、わたしたちの行動や思考について書かれています。
わたしたちが普段行う「検索」という行為が、どういった性質を帯びているのか、その中で、あたらしい視点見つけるにはどうしたらいいのかが端的にまとめられている本です。とても乱暴に結論を言ってしまうと、「旅行にいき、知らない情報に触れよう」という、その辺の自分探し本に書いてそうなものではあるのですが、「なぜネットに情報があふれるいま、旅行に行くことが大事なのか」ということに触れられています。

弱いつながり

書いてあること

わたしたちは何か知りたいことがあるとき、ふつうに「検索」をします。Googleです。Googleで言葉を入力し、そこから得られる検索結果から様々なウェブサイトを巡り、知りたい情報を探していきます。つまり、Googleが取捨選択した枠組みのなか」でしか情報を探すことができません。もっと言ってしまうと、ネット上で情報を探そうと思ったら、「誰かがネットにアップした」情報の中から探すことしかできません。
たとえばインドに旅行に行こうと思い、Googleでインドについて調べるとバックパッカーがよく行く観光地の旧市街みたいなところの情報が出てくるけど、それはおおむね「バックパッカーの人がアップした情報」であり、つまりはバックパッカーの人が経験した、バックパッカー目線でのインドの情報だったりする。そうではなくわりと高級路線の旅行を楽しんだ著者は、ネットに載ってるのとは全然違う体験ができた。さらにインド旅行中に初めて知った地名を検索すると、それまで全く知らなかった興味深い情報が日本語でざくざく出てきたと言います。

日本語でネットにアップされているということは、日本で同じワードで検索していたら当然同じ情報にありつけたはずが、なぜか旅行前にはその情報にたどり着けなかった。なぜか。それは日本にいたからだというのが著者の主張です。インドに行き、現地のリアルに触れて初めて、新しい検索ワードに出会うことができた。そのように、日常の中でGoogle検索しても決して出会うことのできない情報に出会うために、旅行はとても有効であるということです。文中にも「ぜひこの言葉で検索してください」というオススメがよく繰り返されます。

その話を根底に置き、旅行の大事さ、さらにはホームを別に持った「観光客」でいることの大事さが述べられていきます。

思ったこと

「検索」について

まずはじめにこの記事を思い出しました。「検索をするためには、まず自分が求めているものが何なのかをはっきりさせて、さらにそれを言語化する必要がある。ならばはっきりしないニーズを言語化せずに対応できるサービスはアリなのでは」という内容です。

【ネタ出し用】「検索」の次に来る情報サービスは何だろう? : けんすう日記

Web上で情報を探すときのメインな手段はやっぱり検索ですが、検索でヒットするのはやっぱり「いま自分が欲している」または「過去に他人が欲していた」情報にすぎないので、そこにあまり驚きはありません。以前、Googleについての本で「Googleで検索されている言葉の3分の1は、初めて検索される言葉である」という衝撃的な内容を読んだのですが、それにしては検索結果に驚きが無さすぎる。
それに最近はどちらかというとFacebooktwittertumblrなど、いわゆるソーシャルのツールから派生していくネットサーフィンが多いです。ようはみんな、自分で情報を探すのがめんどくさくなってきるのでしょう。仕事柄「SEO」なんて言葉をよく耳にしますし口にすることもあるのですが、正直なところ「勝手にやっといて」って感じです。

キュレーションが検索の次のサービスとして増えてきてもいますが、つまりは「幅を持たせた検索」です。「アニメ」とか「政治」とか「テクノロジー」とか、大きい言葉でざくっと検索して、ひっかかったものの中から面白そうなやつを見る。そこにもさして驚きはありません。いまのところ、検索で新しい世界をひらくためには、「旅行者」になるしかなさそうです。

ネットを散歩することについて

おそらく根底にはある問題が。そうやって情報を得るためには、「誰かが情報をアップする」必要があるということです。
つまり「誰かがアップしたいと思った情報」しかネット上には存在しないということ。善意・悪意・自己顕示欲などさまざまなものが入り交じってネット社会に放り出された情報だけが存在しているのです。そういう情報にしか検索ではたどり着けない。

たとえば道を歩いていてふと前を見ると、前を歩いている三人組の服の色がたまたま赤黄青で「わ、信号みたいだ」みたいなちょっと微笑ましい偶然に出会うことは、ネット上ではほぼありえません。そのことに気づいた誰かがスマホで撮影して、「信号みたいな三人組がいた!」みたいな投稿をすれば話は別ですが、そうなった時点でそれはもう「誰かがアップしたいと思った情報」であり、誰かの意識的な情報なのです。そんな情報、面白くもなんともない。誰かが意識せずに行った行動、誰かに見せる訳でもなくただ何となくしてしまった行動、そういったものが現実の世界を彩っているのに。
庭の木が意図せず道に大きく傾いてしまい、結果桜の廊下が出来上がってしまった六本木の路地のような場所はネットには無いのでしょうか。ここ

ネット上に「無意識な情報」はありえるのでしょうか。
言い換えれば「誰かの無意識な行動が生み出す情報」はあるのでしょうか。ここで言う「無意識な行動」とは、「他人に見せるつもりが無い行動」としてもよいかもしれません。
現実の世界を散歩すれば、同じように街を歩いている人の何気ない姿を見ることはできますが、ネット上ではそれは見えません。ネットサーフィンは孤独なものです。よく考えれば、ネット上では「二人で散歩する」というとても簡単なことすらできないのです。二人で散歩しながら、何気ない会話をして笑う、そんな簡単なことが。もしかするとこのあたりを帰るのがウェアラブルかもしれないし、VRかもしれない。

単にいろんなページを読み歩くだけのネットサーフィンではなく、「載っている情報以外の情報」がめまぐるしく飛び込んでくる散歩ができるようになればいいのに。