メロディコールという、余韻のあるコミュニケーション

夜、友人の携帯電話に電話をかけたところ普通の「プルルルル」という音ではなく、まるで子守唄のような穏やかな曲とともに小鳥のさえずりが聞こえ、やがて「ただいま電話に出ることができません」というメッセージが発せられた。

メロディコール

なかなか素敵な機能である。普段の味気ない「プルルルル」を少し変えてみるだけで、「電話をかけて相手が出る」までの時間を微笑ましく演出してくれる。「空虚な時間」を豊かに満たしてくれるものだ。確かにその友人はそういう、カントリー的な雰囲気を好む人物であり、非常にその呼出音と相性がいい、いわゆる「っぽい」というやつである。

その友人の使っているのはおそらくドコモのメロディコールというサービスであり、月105円から210円の料金がかかる。ドコモのサイトによると、これは電話をかけてくる相手によってその音楽を200000曲以上ものレパートリーの中から選んで変えることができ、「大好きな彼には思い出のあのメロディーを!!」「みんなにはお気に入りの1曲を!!」「会社の上司にはプルル音で!」というように、いわば相手へのこちらの思いを呼出音という形にして伝えることができる(ただサービス使用料だけでなく、楽曲使用料がかかるかもしれない)。ただ空虚な時間を満たすだけでなく、そこに新たなコミュニケーションを生み出しているわけだ。ただ、それが相手に伝わるかどうかは分からず、こちらからの一方的なコミュニケーションに終始している。一方的であること、そこにもう一つのこのサービスのポイントがある。

申し込んだ本人はその曲を聴けない

このサービスのさらに素敵なところは、「サービスを申し込んだ本人がその効果を直接享受できないこと」である。サービス契約者へかけられる電話の呼出音を変化させる機能であり、契約者が非契約者にかけた電話にはノータッチである(はず)。つまりこのサービスを申し込んでいる人は、「他人が過ごす退屈な時間を少しでも減らす」ためにこのサービスの使用料を払っているわけで、契約者本人にはこれっぽっちもその恩恵がないのである。

電話をかけた側からすれば、電話がつながってしまえばそれまで流れていた呼出音などどうだっていいし、電話がつながらない場合の「ただいま電話に出ることができません」という無機質な音声への突然の転移はちょっとした驚きであり、言ってしまえば滑稽ですらある。
契約者側が電話に出た時点で呼出音は終了しており、始まるのは相手との会話なのだからもう呼出音などどうでもいい状況にしかなっておらず、そんなサービスを申し込んでいない僕からすればそのサービスによって何を得られるのか、という疑問も湧いてくるのである。

ではこのサービスによって契約者は何を得ているのか?「呼出音を用いて一方的に感情を伝える機会を与えられる」というのはちょっと弱いだろう。

余韻が得られるサービス

おそらくここで得られるのは「余韻」ではないかと思う。
確かに発信側はメロディコールによってちょっとした驚きがある(博報堂的に言えば「うれしいおどろき」)。確かに契約者はその驚きの仕掛け人であり、発信側はその思う壺であったわけだ。さらに、そこで使われている音楽には発信側と着信側の人間関係に固有の意味が付与されており(彼氏なら思い出の一曲、友達なら以前のおしゃべりで話題にのぼった新曲、というように)、着信側から発信側への「人間関係の確認」の申請であると言える。

発信側はまず「驚き」を与えられ、その後そのメロディが電話をかけた相手からの「人間関係確認の申請」であることを理解し、その相手へ思いを馳せたところで電話がつながり、その相手の生の声が聞こえてくるのである。注目はその後の会話(電話をかけた目的)の方へシフトするとは言え、単純な「プルル音」で空虚な時間を過ごした後とはその心情に明確な差が出るであろう。そこに僅かな「余韻」が生じる。
着信側はその「余韻」を相手の声などから感じ取る。その「余韻」は自ら相手へ送った「人間関係確認の申請」が受理された証拠であり、それはそのまま相手からの友好の証となる。もしその「余韻」がなかなか感じられなかったとしても、それがどこに生じているかを着信側が探るようになると、一方的であったコミュニケーションが双方向のものとなる。

余韻のあるコミュニケーション

自らが直接効果を享受しなくとも、相手をひとつ通じたその効果の余韻を感じる。とりあえず手当たり次第に情報を取り込み、そのままそれを「実体」のまま拡散する、「余韻」のないコミュニケーションが増えた現代において、このコミュニケーションの形は大事にしなければならないのではないかと思う。

ぼくは契約してないけど。
http://www.nttdocomo.co.jp/service/customize/melody_call/