「英雄」から「役割」、そして「道具」へ。ヒーロー像の変遷をまとめてみた
以前授業でまとめたヒーローについての話。 ヒーローは「英雄」とか「主人公」とか訳されるが、とりあえず一般的に「ヒーロー」として捉えられるキャラクターについて考える。
ヒーローが「英雄」であるか「人間」であるかということから見ていくことが出来る。
英雄としての伝承のヒーロー
まず、かつて「伝承ヒーロー」があった。
伝承ヒーローは古事記におけるスサノオであったりとか桃太郎といった、伝承・口伝などで語られるヒーローであり、日本においてそれは圧倒的に人間とは違う存在、「英雄」であった。スサノオは出雲の祖神であるし、桃太郎は桃から生まれる。そういった人外の英雄が形作っていったとされる「英雄時代」という歴史区分がとられることもある。しかし伝承や口伝の中でヒーローは様々に変化して行き、桃太郎は桃から生まれた説、桃を食べて若返った夫婦が子供をつくった説など、一人のヒーローに対して異なるヒーロー像というものが与えられ、統一されたヒーロー像をもたなかった。
市民の自意識を映す鏡、憧れの姿としてのアメリカンヒーロー
時代は飛んで20世紀前半、虚の歴史ではなく実の歴史を持つと言われるアメリカにおいて新しいヒーローの形が生まれる。アメリカンヒーローである。スーパーマンやバットマン、スパイダーマンなど、出版社が著作権を持ち、作画者やシナリオライターを変えて同じキャラクターを数十年書き続けるというスタイルによって、変化しない統一されたヒーロー像というものが出現した。
ヒーロー像が統一されるとどうなるか。ヒーローが社会に及ぼす影響というかイメージが強くなる。アメリカの場合、自らで国を作り上げてきた歴史、アメリカンドリームと重ねて自らが街の中でヒーローになりうるという期待といったアメリカ市民のセルフイメージが投影され、自警団的な要素を持つキャラクターとなった。だからアメリカンヒーローは出自こそ宇宙人や超能力者、大富豪などバラバラであってもことごとく「人間」である。人間とヒーローの二面性の乖離に苦悩するが、戦うことそのものには疑いを覚えない。
戦う理由を求める「物語の演出」としてのヒーロー
戦後、アメリカンヒーローの考え方、ヒーローが「人間」であるという考え方が日本に輸入されるが、もともとヒーローが「英雄」である歴史を持ってきた日本において、それはそのまま受け取ることが出来なかった(映像エンターテイメントとして人気は出るが)。そこでどうなるかというと、人間がヒーローであるための媒介を必要とするのである。戦後間もなくにおいては巨大ロボットという媒介がよく用いられ、巨大な力を扱う無垢な少年が悪と戦うという構図で日本の戦後民主主義への期待を投影しようとした。その後時間が経つにつれて媒介として出てくるのが「戦う理由」である。アメリカンヒーローが「力あるものの義務である」として持ち得なかったものである。仮面ライダーは復讐を理由とする。
さらにその「戦う理由」、すなわち「戦いに至るまでの物語」に重点をおくストーリーが出てき始め、そこでの人間劇が豊かになっていった結果、「戦わない」ヒーローが現れる。エヴァンゲリヲンの碇シンジや最近で言うと魔法少女まどか☆マギカの鹿目まどかなどである。「戦わない」ヒーローは同時に「全てを救えない」ヒーローを生み、そのヒーローの苦悩や悲しみは人間劇に輝きを与える。そこではヒーローは物語の演出のひとつの手段に成り果てているのだ。
ヒーロー像まとめ
このように「ヒーロー」というものの位置づけが
- 象徴的な英雄
- 市民のセルフイメージの投影・社会意識構成の要素
- 物語の演出のひと手段
と移り変わっていったのである。
この先のヒーロー、「アーカイブ化」
この先にあるヒーロー像は何であろうか。最近のアニメで言うとTIGER&BUNNYでは企業イメージを背負って犯罪者と戦うヒーローが現れた。最近のメディアビジネスのありかたに迎合した広告方法にヒーロー像を当てはめた例だ。つまり演出の手段ですらない。ただの役割としてのヒーロー、いわば職業ヒーローというものになっているともいえる。メタ的な視点が流行る現代においては、そのヒーローというものが背負ってきた歴史的な役割を前提とし、それを俯瞰するような、ヒーローをアーカイブするような目線の物語が増えてくるのであろう。というかすでにfate/staynightなどがその例であろう。