劇場版「けいおん!」を観てきた感想

今日遅ればせながら映画「けいおん!」を観た。

正直アニメの一期も二期もほとんど見てない。
なんというか、途中で飽きてしまったのである。こういういわゆる「日常系」のアニメはどうもそこまで性が合わないみたいで、途中でもーいーやってなってしまう。けどまあ人気あるし今回はせっかくだしという感じで観に行った。気分はAKB48を観に行く感覚に近いかも。

感想

観て第一の感想は、綺麗なアニメーションだなあということ。光の表現がすごく柔らかくて美しい。背景の描き込みだって素晴らしいと思う。京都に見知った風景が出てきてなんか嬉しくなる。それと、ふとした仕草とかちょっとしたほっこり感みたいなものの描写はホント感心するレベル。とりあえずキャラがみんなじっとしないのだ。話をしてる最中にも何かをコロコロ転がしていたり、手をもじもじさせていたり、微妙な動きを絶やさない。それが妙なリアリティを持って、キャラの可愛さと相まって観るものにある種の心地よさを与えてくれる。それがけいおん!人気のひとつのキモなのかなあと思う。このアニメーションを作っている人たちの人間観察力はすごい。

ただ、けいおん!好きの人たちがよく言う、「このアニメには凝ったストーリーは無いけれど、みんなキャラが立っていていきいきしている。これはキャラを愛でるアニメなのだ!」的な言い分にはなんだか賛同できない気分。キャラが立つとはどういうことか。確かに出てくるキャラはみんな可愛い。唯も律も澪も紬もあずにゃんもクラスメイトのモブたちもみんな可愛い。けどみんな中身は一緒に見える。上っ面の発露の仕方が違うだけで、みんな考えてることは一緒である。そもそも個性と言えるほどのキャラ内面の描写が無いのだ。

「キャラが立つ」というのは、それぞれのキャラにそれぞれの思想があり、それぞれの信条があり、それぞれの正義を持っているということだと思う。それぞれのキャラがそれぞれ一つの確固たる人格を持ち、それがみんな異なるからそこに物語が生まれる。本当にキャラが立っている作品というのは、後ろに「作者」という一つの人格が存在することを忘れてしまう、または信じられなくなるほどにそれぞれのキャラの人格が異なっているものである。従ってそれぞれのキャラの内面描写が必須となる。

けいおん!にはそれがない。それぞれの人格が見えないのだ。みんなが予定調和的にひとつのゴールに向かって動き、その過程での妙なリアリティを持った仕草と単純なキャラの可愛さ、そして背景の美しさで魅せている、それがけいおん!である。

キャラ全てがひとつの人格を共有しているのである。
それは「作者」に他ならない。この場合の「作者」が誰であるのかちょっとわからないが(監督?制作者全員?)、つまりけいおん!は作者の人格が一人で遊んでいるアニメなのだ。もはや物語ですらない。時間が進むにつれて変わっていく心情の描写がない。時が止まっている。この止まった時の中での可愛いキャラと仕草と美しい風景がただ描写される様が、今までになかった新しい快感を私たちに与えてくれるのだ。

当然それだけではただの作者のオナニーアニメになってしまうので、おそらく作者はそのひとつの人格を客観的に創りだそうと努力したことであろう。簡単にできることではない。人格の客観視と深い人間洞察。これがけいおん!が良いアニメたる所以だと思う。