矢内原伊作「ジャコメッティ」

矢内原伊作ジャコメッティ」(みすず書房)を読んだ。場面展開が多いわけでもないのに、まさに目の前にアトリエの光景が浮かんでくるような臨場感と面白さがあったが、一番印象に残っているのが以下の場面である。

アネット夫人はどうしても近代音楽の価値を夫に認めさせようとしてしきりに論じたが、ジャコメッティの方も近代芸術よりも中世或いは古代の芸術のほうが優れているという説を主張して譲らない。(中略)「しかしあなたがそういう風に言うのも、あなたが近代人であり、現代の芸術家だからではありませんか」と僕が述べると、これには彼も賛成して、「確かにそうだ、(中略)近代の目で見るからこそ古代や中世のものに動かされるのだ、つまり私はグレゴリアン聖歌を最も近代的、或いは最も現代的な音楽としてきいているのだ」と言った。「それならどうして(中略)今日の芸術家はエジプトやビザンティンのような美術、或いはグレゴリアン聖歌のような音楽が作れないのかしら。」ジャコメッティは呟くように、しかし即座に答えて言った、「一人の力で社会を作ることは出来ないからだ」と。

例えば建築に関して、古代、或いは中世には「建築家」というものは存在しない。いたのは職人である。実際は誰か設計した人物がいたのだろうが、その特定の人物が注目されることはほとんどない。建築においてそういうものが出てくるのは15世紀ルネッサンスのブルネレスキあたりからである(多分)。その時代には「作家」というものは存在せず、世に存在する「作品」というのは社会、というよりもその社会全体の意識(もしくは共通の目指していたもの)が作り出していたものなのだろう。エジプトでは王に対して捧げられる作品がつくられ、中世西欧の絵画ならばほとんどが宗教画であり、教会が建てられる。作家が自らの自己表現として作品をつくるということはなかったのである。

それがルネッサンス、さらにマニエリスムバロックなどを経て、芸術家たちが拠り所とするものが、同時代で同じように育まれた自らの精神ではなく、かつての偉人たちの精神となる。そうなると、どの偉人を拠り所とするかによって個々の芸術家の立ち位置が変わってくる。「~主義」「~派」というものが現れはじめる。芸術家は自らの拠り所にしたがって作品をつくり、他の芸術家との差別化が自然と為されてくる。すると自らの生活や信条などと相まって、意図的な差別化が為されるようになり、作家の自己表現というものに変わっていく。社会全体でひとつの拠り所にしたがってひとつの方向性に向かって作品を作っていた時代とは違い、それぞれの作品がそれぞれの方向性を向いている。

そうした流れの先の20世紀において、ジャコメッティは自己表現というものに関心がなかった画家なのだと思う。彼が目指すのは「目に見える通りにものを描く」ことであり、そこに自らの思想が流れこむ余地はなかった。彼はひたすら同じ物を描き続け、その目標へと少しずつ近づいていったが、決してそれが完成に達することはなかった。作品は完成するということはありえず、そこで停止しているのだと言う。そしてあらゆる芸術家は「目に見える通りに」絵を描くべきであり、そうならないのが不思議であるというほどであった。当然それぞれの主観が入り込むので、皆が「見える通りに」描いたその絵がすべて同じ絵になるのではないが、そこへ到達するのが芸術の本質であるというのが彼の考えである。「芸術は趣味の問題ではない」とも言っている。同時代の芸術家は「目に見えない」ものを描こうとするので、それぞれが違う方向性へ向いてしまう。そうすると、社会全体でひとつの作品を作り上げていた時代と比べて、作品自体の強度が弱くなってしまう。

最近は個性が重視される時代である。むしろ他人と違う方向性を持つことが良しとされている気すらする。最近はだれが見ても良いと言われる作品をあまり見ない。それに一番近いのがiPhoneではないか(僕は使ってないけど)。しかしiPhoneには作家がいない(ジョブズを作家と捉えることは出来るかもしれないけど)。iPhoneを芸術作品として捉えるかどうかはまた別の話だけど、あれはある意味でいまや社会が作り上げている作品ではないかと思う。「シンプル」かなにか、ひとつの目指す精神があって、それに社会全体で目指した結果出来上がった産物。iPhoneはそれを先駆けて実現した例なのではないか。言ってしまえば似たようなものがこれからさきどんどん出てくる。そうすると作品の強度は上がっていくだろう。

個性ばかりじゃなくてもっと他に重視するものがあるんじゃないだろうか。