文化庁メディア芸術祭2014に行ってきた。

先日、メディア芸術祭受賞作品展を見に行きました。毎年欠かさず行こうと思っています。

2014年の展示で多く語られていたのは、「データを用いたアートの可能性」でした。何かしらの手法を用いて取得されたデータを可視化したり、あるいは音に変換したりしてアート作品として展示するものが多かったように感じます。

「データ」を使ったアートの傾向

それはつまり、作品の根拠を自分の外に求めることに他なりません。作家は「なぜそのデータを根拠としたか、なぜその方法でデータを可視化したか」というところに自らの作家性を主張し、導きだされた結果としての展示物を、見物者はなんとなく眺める。全く無視されるわけではないでしょうが、見た目の美しさなどよりは、その生成プロセスが重視される傾向があるように思います。

根拠を自分の外におくこと

れはどこか、Facebook上でみんなが、食事の写真をアップし、ネットに転がる種々の記事をシェアすることに似ているような気がします。テキストは少なく、自らの言葉で語ることは多くはない。
ネット上での自分の存在は、自分が吐き出す思想や言葉ではなく、自分が食べたものや気になった記事など、自分の外側にあるもので規定されているかのようです。今回のメディア芸術祭で感じたことは、そうやって人が存在規定に用いてきたコンテンツそのものが、その存在の根拠を自らの外側に求めだしたということです。

データの信憑性は?ということを考えさせないメディアアート

ところで、データを可視化したアート作品を見ている鑑賞者は、そのデータが本当のものであるかは正直わかりません。「この作品はサンフランシスコにあるプールをトレースして...」と言われたところで、それが本当のことなのかはわからないのです。ですが、そこを気にしている人は誰もいません。ということは、大事なのはデータそのものではなく、その提示方法、つまりメディアなのでしょう。

伝えられる情報ではなく、それをどう伝えるか、というところに主眼をおいたアート作品のことを、すなわちメディアアートと呼ばれるのだなと理解できました。