鈴木理策写真展「意識の流れ」で「写真とは何か」を考えさせられた
もう終わった展覧会だけど、オペラシティでやってた鈴木理策写真展「意識の流れ」がすごく良かったので、思ったことを書く。
これまであんまり「写真展」というのには行ったことがなかったけど、それはきっと写真を「単に現実を切り取ったもの」としてしか見てこなかったからだと思う。単に綺麗な写真を見たところで、「現実でいいじゃない」と思ってた節がある。そんな固定観念を吹っ飛ばしてくれた写真展だった。
http://www.operacity.jp/ag/exh178/
内容と感想
基本的にはいわゆる「風景画」がメインの展示。一つ一つゆったりと飾られて、一つの写真を見ている時に他の写真が勝手に目に入ってくることもなく、とはいえ隣の写真とつながりがまったく無いように見えるわけでもない、微妙なスケールの展示だった。
写真自体もスケール感が掴みづらく、「ここに人が居たらどれくらいの大きさなんだろう」というのが判断つけにくかった。逆に言うと、人間がどんな大きさでその写真の中にいてもしっくりくる、というか、人がどんな入り方をしてもそれが自然な世界を勝手にこちらが想像してしまうような写真だった。
「水鏡」と題された壁には、小さく「写真の中では、水に映る風景も、元の風景も等価である」的なことが書いてあった。それを示すように、床に置いたモニタに映像が映し出されて、上下左右どちらからでも見れる展示がされていた。
ぱっとみただけでは、どちらが元の風景で、どちらが映り込んだ風景なのか、たしかにわからなかったのだけど、そんなのどうでもいいと思った。見る人によってはどっちかが映り込んだ風景だし、見る人によってはどちらも普通の風景なのだ。
ただの真っ白いパネルが、じつは純白の雪景色を写した写真だと言われたら納得できるのだろうか。少なくともこの展示では無意識にそう思わされてしまった。
ただ雪景色が並んでいるなあと思っていたら、最後に小さく「白い印画紙、白い雪のイメージ。その境界線は私達の側にある。」の文字。
衝撃的だった。何も考えずに提示された写真を見ているだけだと思っていた自分たちは、いつのまにか勝手に自分で「写真」を作り出してしまっていたのだ。
まとめ
展覧会全体を通して、「写真はただ現像された視覚的な存在なのではなく、それを見る私たちがそこに見出すものである」というメッセージを放っているように感じた。言い換えれば、見る人がいなければそこに写真はない。だからこそ写真家というのは、写真を見る人の「意識の流れ」をコントロールするものなのだろう。学生の時に読んだ「視覚論」のテーマに近いのに、写真に対してそんな能動的な考えを持ったことがなかった。
写真は撮影者だけが作り上げるものではないのかもしれない。
来年咲く桜を思い描く時、過去に出会った桜の記憶によるものなのに、私にはそれが未だ見ぬものに思われる。
展示内キャプション