映画『エクス・マキナ』 結局エヴァは人間なのか人工知能なのか、という感想(ネタバレあり)

たまたま知って面白そうだった『エクス・マキナ』という映画を観てきた。なかなかおもしろかったので感想を雑に書く。ネタバレありなんだけど、1回観ただけだから間違ってるところあるかも。


映画『エクス・マキナ』予告編

 

あらすじとテーマ

その世界のGoogle的な企業に勤めるケイレブは、社長ネイサンの別荘に1週間滞在することになる。そこで超絶美人ロボット「エヴァ」の人工知能が「人間性」を持っているかのテストに協力することになる。エヴァとの会話の中で次第に彼女に惹かれていく。そして、テスト終了後に彼女を待っているのは人工知能の死と言えるデータ書き換えであることを知ったケイレブは、彼女の「助けて」という言葉を受け、脱走の計画をたてる。

的なお話。

 

この話で一貫して掲げられているのは「人工知能と人間の境界線はどこか」というテーマ。話はチューリングテストから始まり、ケイレブのテストは「彼女を機械だと認識した上で、なお彼女に人間性を感じるかどうか」というところに主眼が置かれる。

映画の中で彼女は、徹底的に機械と人間の合間を行く描写がなされている。身体はどう見ても機械だが、顔や表情は少しぎこちなくはあるものの完全に人間のそれ。めっちゃ美人。しかも時折口元のアップなどが映され、より人間的な描写がされる。その人間と機械の間で揺れ動く微妙さもこの作品の見所の一つではある。

 

エヴァは人間になれたのか?

映画を最後まで見ると、この疑念が出てくる。エヴァは人間性を獲得したのか?エヴァは人間になれたのか?

色々読み方はあると思うけど、僕個人は「エヴァは人間にはなれなかった」と思っている。たしかに物語終盤でパイロットがエヴァをロボットと気付かずヘリコプターに乗せた時点で、チューリングテストは完全に成功している。だけど、いくつかの部分で「エヴァは人間になりきれていない、それどころかエヴァはまったくの機械である」と、この作品では描かれているように思ってしまうのである。

 

ポロックの絵とエヴァの絵

劇中、ジャクソン=ポロックの絵が大きな意味を持つ。ポロックは「アクション・ペインティング」という技法を用いて絵を描いていた。彼は無意識に任せて全身で筆を走らせることで、「大人か子供か」「どこの国の人間か」「宗教は何を信じているか」などといった社会的属性から一切解き放たれた、ただ「人間である」ことの表現をしようとした。その結果荒々しい抽象画が出来上がっている。

一方、エヴァの描いた絵はポロックのものと違い、以下の様な特徴がある。

  • 黒い直線の集合体で構成されている
  • 最初はランダムな集合だったものの、「何か対象を決めて描く」ことを意識してからは風景や人間の顔などをリアルに描いている

劇中に出てきたポロックの絵と正反対と言ってもいいほど違っている。純粋な「人間」を表現しようとしたポロックの絵との対比によって、エヴァが機械であることを強く意識させられる。

 

エヴァとキョウコ

ケイレブとエヴァとネイサンともう一人、この作品には重要な登場人物がいる。家政婦のキョウコだ。彼女も結局はロボットだったわけだが、エヴァとはまったく異なる描かれ方をされており、おそらくはエヴァと対極に位置する存在として設定されている。

  • まず、どこからどう見ても人間のような見た目(なんとなく彼女もロボットなんだろうな、という予感はあったけど)。そしてエヴァと違ってアジア系女性。
  • クラブミュージックでダンスを踊る(この作品の中ではクラブやダンスといった要素が「人間」の象徴として描かれているフシがある)
  • さらにネイサンとセックスまでしている。ネイサンは変態なので、ロボットもセックス可能(しかも「感じる」ためのセンサー付き)に仕立てあげているのだ。

要は、エヴァとくらべて「人間側」であるという設定のように見えるのだ。

そして、物語の終盤、キョウコはこれまで虐げられていた恨みを晴らすかのようにネイサンの背中を刺す。DV振るうご主人様を包丁で刺すなんて、ある意味昼ドラみたいな感じだけど、それはつまり「人間」だからできるドロドロ具合なのだ。

そんな「人間」であるキョウコと対極のエヴァは、ネイサンとキョウコの死体を尻目に、ケイレブまでも気に留めず独りで外に出て行ってしまう。あのシーンの「ええ、そこケイレブ置いて行っちゃうんや。。」という感じ、まるでケイレブもネイサンも同等、生きている存在として見ていない様に冷たく見えた。

 

エヴァは「機械」である(ように見える)

上記のように、エヴァは人間になりきれていない、というよりも、人間(的なもの)との対比によって、エヴァはまったくの「機械」であるという描写がされているように、見える。

劇中、ネイサンは「テストは成功だ」と言った。「脱出したい」という欲望のために、自らの女性性や境遇を利用してケイレブを誑かした。それは人間性が無いとできない行為であると、ネイサンは判断した。だが個人的には、エヴァは「ケイレブを騙した」という感覚すら持っていないのだと思う。ただ外へ出るために必要な手続きをとった、というだけなのではないか。「人が多い交差点で人間観察がしたい」と言っていた彼女が最後に雑踏の中へ進んでいく。つまり、彼女は嘘をついていないのだ。

 

エヴァはその後どうなったのか

劇中、「メアリーの部屋」の話題が出てくる。色についての事実を全て知りながらも白黒の世界で生きてきたメアリーは、外に出て初めて色に触れた時に何か新しいことを学ぶのか、という問題。これはそのままエヴァにあてはまる。頭脳がブルーブック(Google的な巨大検索エンジン)であり、世界中のスマホをハックし人間の表情や声を収集しているエヴァは、「人間」についてあらゆることを知っていると言える。そんな彼女が物語の最後で人間社会に飛び出していった時、彼女は何か新しいことを知ったのだろうか。

おそらく彼女は、パイロットを騙せたように、人間社会でも「人間」を装って生きていくのだろう。劇中で説明されている通り、彼女もセックスすることができる。彼女を機械と知る術はない。だがその裏側は、ケイレブを放置したように人を人と思っていない、いや、意識や感情など無いただの機械なのだ。

 

雑踏の中、彼女の無表情な顔で物語は幕を閉じる。そこにはケイレブも誰もいない、孤独なエヴァの姿があった。

 

結局この物語はなんだったのか

結局この映画は何が言いたかったの?と言うと、言い過ぎかも知れないが僕はこの映画を「人間賛歌」であると捉えている。

ここまで人間に近く見えるエヴァという存在でさえ、決定的に機械である。すなわち、どれだけロボットが発達したとしても、人間との間には確たる境界があり、決してそこは侵されることはない、人間はロボットとは違う存在なのである、と、人工知能ブームが来つつある世の中に宣言する作品なのではないか(日本では2016年公開だけど、アメリカでは2014年の映画らしい)。

ある意味とても古い内容を、今までにない微妙な差の付け方で表現した作品なのだと、1回観て感じた。

 

わからんところ

ふたつ、不可解な点がある。

ひとつ目はネイサンを殺し、ケイレブを閉じ込めた後のこと。地上に上がる階段の途中で、エヴァは一瞬笑顔を見せる。本当に人間のような楽しそうな笑顔を。僕の見ていた限り、エヴァが本当に人間のような表情を見せたのは前後含めてその時だけである。しかもその時は周りに誰もいなかったので、何かを達成するための手続きとしての笑顔というわけでもなさそう。ここだけを見ると、エヴァは本当に人間なんだなあ、と思えてしまう。最後にこちらを混乱させる要素を差し込まれたという感じ。もしかすると、「自分を人間のように思わせる」という「手続き」を、観客である僕らに対して行ったのかもしれない。

ふたつ目は、そもそもなぜ人工知能は外を目指すのか、ということ。エヴァも、その前のロボットたちも外へ出ることを渇望していた。ある意味ブルーブックという検索エンジンを頭脳に持ってしまったために知りすぎてしまった外の情報を補完するために必要な行為だったのかもしれない。エヴァは「人混みの多い交差点で人間観察がしたい」と言った。知ることそのものが目的になっている感じがしているが、ある意味「学習すること」そのものが人工知能の存在意義なのかもしれない。